手で考える
2019.04.22
頭で考えるのではなく、手や体で考える。
頭で考えたことを手で描き起こすのではなく、手の動きが先行して、その後に思考を展開していくような感じです。
原寸で考える
2019.04.15
パソコンの画面上の図面に没頭していると、ついスケール感を忘れてしまいがち。どんな些細なことでも、気になったら原寸で考えるようにしています。
目的と手段
2019.02.14
昨日の投稿の続きです。
例えば、ご要望のなかには「屋上緑化」がありました。しかし、私はあえて屋上緑化を計画には取り入れませんでした。要望を鵜呑みにして捉えるなら、これは条件違反です。
しかし、屋上緑化は「目的」ではなく「手段」です。ヒアリングしながら、おそらく目的は「外部との繋がり感」や「ヒューマンなスケール感」なんだろうなと感じていました。その目的をかなえる手段は必ずしも屋上緑化であるとは限りません。
私からの提案は地面に根差した北側の静かな庭です。結果はこれを驚きながら喜んで受け入れて下さいました。
このように一つ一つの要望に対して、お客さんの言葉を鵜呑みにすることなく、本質をとらえ直すことこそ建築家の職能だと思っています。お客さんの要望を仮に100%そのまま具現化したとしても、決してそれはお客さんの100%の満足にはならないのです。
私が初めてのお客さんと面談する際、必ず要望書を書いて来てもらうようにお願いしています。その際、よく「目的と手段」ということをお話させていただきます。
要望というと「子供部屋は何畳で、シューズクロークとパントリーがあって、、、」と具体的なことを書いてしまいがちですが、それはあくまで手段です。目的に焦点を当てて物事を考えていけば、もっと良い別案が生まれる可能性が広がりますよね。
こんな風に建築家との対話を通じて、新たな価値観を築いていく。出来上がる家はもちろんのこと、こういう体験そのものも家づくりの目的の一つに成り得るような気がしています。
建築の魅力
2019.02.13
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○○建設様の事務所新築計画にあたり、ご提案の機会を頂きましたこと、そしてご提案までに長らくお時間を頂きましたこと、ありがとうございます。
ご提案にあたり、自分が最も大切にしたことが二つあります。それは「建築としての魅力をつくる」ことと「私に求められていることに応える」ことです。
事務所兼作業場ということで解決しないといけない課題や要望など様々あると思います。自社で作成されたプランもありましたので、それらを要望や設計条件として整理するだけで、もしかしたら計画として成り立つかもしれません。しかし、ある種、優等生的に課題を解いたとしても、それでは足りません。
「解く」というスタンスより「建築の魅力」を作り、その力強い魅力で計画を引っ張っていく方が素敵です。そして、○○さんが自社でも設計できるものをあえて外部の私に求められた理由を自問する中で、(住宅を主として設計する)自分らしさをきちんと出していくことこそ求められていることだと考えました。
具体的にはいわゆるビルっぽく、箱っぽい建築ではなく、「ヒューマンな建築」であることを目指しています。それは外観的にも、内観的にも、体感的にもです。
いくらか条件違反を抱えているかもしれませんが、「建築の魅力」で乗り越えられたら幸いです。また、ここで提案したことが全てでなく、ここから対話を重ねながら、計画案が更なる成長を遂げられるよう願っています。
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大切な心意気
2018.12.01
渡辺武信さんの文章の引用です。
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ぼくは、たとえインスタント・ラーメンであっても、龍の模様なんかがついた中華丼で食べたいし、一本五百円の安ワインでも、コップではなくて、ワイングラスで飲みたいと思う。そういう風にして、食べたり、飲んだりした方がおいしい、というのは一つの大切な真実ではないだろうか。合理的な考え方からすれば、容器によって味が変わるはずもないのだから、おいしい、と思うぼくは幻影を食べたり飲んだりしているのかも知れない。しかし、そうした幻影を一つ一つ否定していったら、ぼくたちの生活に何が残るだろう。
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建築においても、何も豪華である必要なんて無くて、「本物って何だろう?」とか「楽しさ・豊かさに向き合おう」という心意気が大切なのだと思う。
盲目の人々|見学会の御礼に代えて
2018.10.08
現代美術作家ソフィ・カルの作品に「盲目の人々」というものがあります。
これは生まれつき視覚の無い方々に「あなたにとって美とは何ですか?」と問うものです。とても残酷な質問にも思えるのですが、目の見えない方はこの質問にとても深い回答をされるそうです。
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Q.あなたにとって「美」とは何ですか?
A.私にとっての「美」とは海です。或いは緑です。或いは魚です。或いは毛皮です。星空です。或いは羊。或いは白という色です。
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私たちはどうしても視覚に頼って、「美」を頭だけで理解しようとしがちですが、実際には第六感までの全てが「美」を感じる情報源となっています。
建築設計は未だ存在しないものを「図面」という視覚に頼った情報に変換する作業です。しかしながら、その図面には音・におい・肌触り・揺らぎ・奥行き・記憶など全てに想いを馳せ、それらを落とし込まなければなりません。
西石井の家の設計を通して、そんなことを考えました。そして、その漠然とした想いが建築に表現され、来場いただいた皆様に少しでも感じていただけたなら幸いです。
ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。そして何より見学会にご協力いただいた建主さま、本当にありがとうございました。
天窓の光
2018.09.06
西石井の家も間もなく木工事が終わり、仕上工事に進みます。狙い通りの光が取り入れられていることを確認し、安心。
天窓も美しい光が落ちてくるよう納まりを密に検討しています。個人的には人が常時いるようなところではなく、部屋の隅とか廊下・階段のようなところに配置するのが良いと思っています。光の美しさだけでなく、リモコンで開閉し夏場の熱気を逃すのにも効果的です。
写真は階段室につけた天窓。これから漆喰で壁を仕上げます。漆喰の質感が天窓の光によって、より魅力的になっていくことを期待しています。
わからないことをわかろうとして、でもわからないまま
2018.03.19
知りたいと思っても、相手がはるか遠く高いところにいるので決してわかることができない。わかることはできないとわかっていても、魅力的に存在しているから知りたくなる。
人は古来、この好奇心と探求心によって多くの思想や芸術をつくりあげてきた。ここが科学との違いである。わかってしまいたくないという気持ちが知りたい気持ちの裏側にいつも存在している。
今、建築は不自由だ。芸術的な側面と科学的な側面を同じくらい持ち合わせてはいるけれど、多くの場合は“わかる”ことが求められる。芸術的な側面は置き去りになり、科学的な側面が重視されていく。“そんなことはない”と思いつつも、世の中が建築に期待することの大半が科学的になっているから、知らず知らずの間にその求められていることに忠実に応える癖がついてしまっている。“わからない”とは言えなくなっている。
建築は果たして進歩しているのだろうか。その問いに関して私は、科学的には進歩しているかもしれないけれど、芸術的には後退している、と応える。
~中略~
様々なことが科学的に解明されてきた現代にあっても、依然としてわかろうと思ってもわからないのが“自然”なのではないだろうか。わかろうとすることは大切だと思うけれど、どんなに科学的な技術を駆使しても決してわかるものではないだろうという認識をもち、自然の前に屈する覚悟と準備が必要なのではないだろうか。
わかることを目的にして急ぐのではなく、わからないことをずっとわかろうとして、でもわからないまま。そんな人の気持ちを肯定したい。人がみなそのことを肯定できるのであれば、建築はもっと自由で穏やかでいられるような気がする。
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上記は尊敬する建築家の文章の引用です。ふと、生物学者であるレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を読み終えた時の感覚を思い出します。
建築にできることは何か、建築の役割とは何か。常に問い続けなければならないと思う。
ラフスケッチ
2018.02.19
人に見せるつもりもない、自分が考えるためのスケッチが建主に好評だったりする。
人に見せようと意識すると、どうも線が固くなってしまうので、ラフなスケッチの方が僕も好きだ。
散歩
2018.02.15
ここのところ、現調の際に対象となる敷地に滞在する時間よりも、その周辺を散策する時間の方が圧倒的に多くなりました。周囲の街並みとか、点景、街の空気感、光の質感など感じ、ぼんやりとイメージを膨らませながらしながら散歩します。この「散歩」が具体的に設計の何に繋がっているのか、表現するのは難しいですが、なくてはならないものという確信は間違いなくあります。
設計は些細なディティールの積み重ねですが、建築の「質」とか「考え方の方向性」など、もっとぼんやりしたものの中に本質が隠れているように思います。
設計が具体的になるにつれ、些細な部分に捉われ、大きな方向性を見失いそうになる時があります。建築はつまるところ「全体感」が最重要。現調の度に、ふと我に返ります。
家に仕える
2018.01.26
本来「施主」と言うのは施す主と言う意味ですからそう呼んでしまうと、施しを受けていることになってしまうわけで、僕としてはちょっと釈然としない思いが残るのです。僕がクライアントという言葉を使うのは、施しを受けているわけではなく、あくまで依頼を受けてやっていると考えたいからです。
で、もし、「施主的な存在」があるとすれば、それはこれからできる「家」だと考えています。普通は施主が1番上にいて、その下に設計者がいて、さらにその下に工務店がいて、職人がいるという具合に、上下のヒエラルキーができるわけですが、僕はそういう上下関係ではなく、クライアントも設計者も職人衆もみんな横並びとなって、自分たちが作ろうとしている「家」に仕えて、力合わせてやっていくというのが理想の形だと考えています。
尊敬する建築家の言葉です。本当にその通りだと思います。「家に仕える」という精神を持って、建築に取り組んでいきたい。
住まいは人を現わす
2018.01.13
新規の建主さんのヒアリングに引っ越し間際の「稲荷の家」を借りさせていただきました。少しずつ住まい手の生活の品々が納められている様子にほっとしました。ちょっとした小物など随所にセンスが光り、この住まい手あってこその、この家だなと実感した次第です。
住まい手の個性や建築に対する価値観は家そのものに現れます。今、いくつか基本設計の案件を抱えていますが、この価値観の共有が一番大切だと、改めて肝に銘じています。